2025年12月9日(火)
曖昧な内容が書かれている本を読んだ。その後読み始めた本は、難解だが明確な内容が書かれた本を曖昧にしか理解できていないと感じた。何もわからない。何の意味もない時間を使ってしまったと感じた。読んだ本を面白く感じられないと世界にうんざりする。
しかし、それらを混同するべきではないのだろう。適切に取り組めば理解できる本がわからないという事態は尊厳に関わる。
難解な本に適切に取り組めていないのは、丁寧に読むだけの時間と気力をきちんと用意していないからだと思った。対処したほうがいい。
2025年12月8日(月)
この数日走り回っていたのでお休みの日&家で作業の日。家にほとんど食材がないので、昼ごはんは菱田屋酒場に行こうと思ったが、作業に夢中で気づいたら閉店の時間が迫っていた。何を食べたいのかよくわからなくなったが、今日はひとまずビリヤニを食べに行くか、と思って外に出たところで、近くのパン屋、ケノヒノパンのサンドイッチを買おうと思い立つ。しかし売り切れだった。がっかり。ビリヤニを食べに行く気もしなくなって、どうしようか迷い、立ち尽くす。家に帰り、冷凍してあるトマトソースでトマトパスタを作った。
こうやって判断に長々と迷うことがこの日はもう一回起こった。疲れているのかもしれない。
2025年12月7日(日)
どうでもよくなかったことがちょっとどうでもよくなる。
老松の梅酒羹を買う。老松のお菓子は、説明書きの日本語が美しい。
御神梅「梅酒羹」の由緒
北野神社の梅林は京の春にさきがけて一般に公開されます。四十数種壱千本の紅白梅、一重八重、大輪小輪、それぞれ趣をかえ香気馥郁、天満宮の境内一杯に香ります。剪定、消毒除草、実取り、四季を通じてすべて神官の手塩によるものです。
御神梅「梅酒羹」は、この北野梅林の梅実を神前に供へ、当店へ下賜されたものを一年有日漬け込みまして仕上げました。まったくの自家製の梅酒菓です。神梅の効果何卒御顔の程お願い申し上げる次第でございます。
冷やしてお召し上り頂ければ一層美味かと存じます。
主人敬白
有職菓子御所 老松
2025年12月6日(土)
組み写真をめぐる議論の一部。
アートは視覚的な部分を組み上げた上で、同時に、視覚的な全体を狙う。人類学者による組み写真は部分を視覚的に結びつけることを試みた上で、それを視覚的な全体として有意になるように畳み直すものではない。組み写真では、視覚的なもののネットワークを言語的なネットワークに置き換えて、それに対応する言語的なフレームを取り出そうとする。
2025年12月5日(金)
仕事とは別に作品を作ったり小商を始めたりしている友人。眩しかった。
翻って、自分は何をしているのだろうと思った。仮にいまは時間がないだけだとしても、時間ができたとき、自分に友人のように作りたいと思えるものはあるのだろうか。
数日後に気づいたのは、私はすでに書くことで作っているということだった。特に私は、Workflowyを使って本当に部品を組み立てるように書いているわけで。
とはいえ、私が書くことでやっているのは、「作る」的な書くことというよりも、何かを複製可能にするための書くことだろうと感じている。よいレストランの評価すべき点を明確にしてそれを広める、民族誌の書き方を体系化する、など。書かれた文章それ自体を超えたものを狙っているようだ。
2025年12月4日(木)
週末に行うワークショップのイントロダクションのための資料は、以前何回か使ってきた資料を作り直して使おうと思っていた。
だが改めて見直してみると、違和感を覚える箇所がある。とはいえ、これまでもこの資料を何回も使ってきて、そのときこの部分に突っ込みが入ったことはなかったから、特に修正しなくても飲み込んでもらえるのだろうと思った。
しかし。今直さないと、「違和感を直さないでワークショップをやってしまった」というやましさを感じることになる。ワークショップが過ぎてしまえば、修正する動機は失われてしまうはずだけど、違和感を抱いたという事実は消せないので、気がかりが残ったまま日々を過ごすのだろう。それは嫌だった。
結局、ほぼ終日その修正に時間を費やすことになった。心理的な抵抗を跳ね除けただけでも素晴らしいのに、そのワークショップの方法について新たな知見を得ることができた。
2025年12月2日(火)
依頼された文章を一通り書き終わった。
それにしてもつまらない文章が書き上がってしまった。読者にとってどうであるのかわからないが、筆者としては読んで面白くない。ただし、今回依頼された文章は、そもそも文章の位置づけが面白くなりようがないものなので仕方ないのかもしれないが。
それでも、自分が書いたものがつまらないと自分で思うのは落ち込む。
いつもであれば、文章を書き終わった時、疲れの中にも書き終わった高揚感を感じることができるのだけれど、今回はただ疲れを感じてぐったりするばかり。普段は自分でよいものを書けたと思う高揚感が疲れを帳消しにしてくれていたのだろう。
2025年12月1日(月)
菱田屋酒場で昼ごはん。鳥カツのタルタルソース添えを頼んだ。
おいしい唐揚げはよく「柔らかい」とか「ジューシー」とか言われるが、そういう感じの肉汁が出てきて弾力がある、というよりも「ふわふわ」という感じ。そしてカツなので、トンカツ的なパン粉の衣がついており、サクサク。サクサクの中に信じられないふわふわが詰まっている食べ物。カツであるにもかかわらず、もはや上品だと感じた。食べるのがそれほど好きではない私にしては珍しいことに、食べる喜びを感じた。
店を出る時、店主に感想を伝えたら、胸肉の中でも、手の付け根に近いところ、一番よく動かす部位を使っているから柔らかいのだ、と言われた。希少部位なんだよ、と。いやそういう問題ではない、料理がお上手なのだ、と思った。だけど、希少部位なんだよ、と自信を持って言われたので、言い返せなかった。
2025年11月30日(日)
以前は自分が誰かに褒められたい、認められたいのだと思っていた。
その後、多少なりとも書いたものを人に読まれる機会を持つようになったにもかかわらず、不快な感情は残り続けていた。私が欲しかったのは認められることや褒められることではないと気づいた。そうだとすれば、この居心地の悪さは生活の安定に関わる不安なのだと思った。
しかし、偶然にも生活の不安が減ることになっても、やはり落ち着かなさは消えてくれない。なので、書いて検証する。