2025年12月6日(土)
組み写真をめぐる議論の一部。
アートは視覚的な部分を組み上げた上で、同時に、視覚的な全体を狙う。人類学者による組み写真は部分を視覚的に結びつけることを試みた上で、それを視覚的な全体として有意になるように畳み直すものではない。組み写真では、視覚的なもののネットワークを言語的なネットワークに置き換えて、それに対応する言語的なフレームを取り出そうとする。
組み写真をめぐる議論の一部。
アートは視覚的な部分を組み上げた上で、同時に、視覚的な全体を狙う。人類学者による組み写真は部分を視覚的に結びつけることを試みた上で、それを視覚的な全体として有意になるように畳み直すものではない。組み写真では、視覚的なもののネットワークを言語的なネットワークに置き換えて、それに対応する言語的なフレームを取り出そうとする。
仕事とは別に作品を作ったり小商を始めたりしている友人。眩しかった。
翻って、自分は何をしているのだろうと思った。仮にいまは時間がないだけだとしても、時間ができたとき、自分に友人のように作りたいと思えるものはあるのだろうか。
数日後に気づいたのは、私はすでに書くことで作っているということだった。特に私は、Workflowyを使って本当に部品を組み立てるように書いているわけで。
とはいえ、私が書くことでやっているのは、「作る」的な書くことというよりも、何かを複製可能にするための書くことだろうと感じている。よいレストランの評価すべき点を明確にしてそれを広める、民族誌の書き方を体系化する、など。書かれた文章それ自体を超えたものを狙っているようだ。
週末に行うワークショップのイントロダクションのための資料は、以前何回か使ってきた資料を作り直して使おうと思っていた。
だが改めて見直してみると、違和感を覚える箇所がある。とはいえ、これまでもこの資料を何回も使ってきて、そのときこの部分に突っ込みが入ったことはなかったから、特に修正しなくても飲み込んでもらえるのだろうと思った。
しかし。今直さないと、「違和感を直さないでワークショップをやってしまった」というやましさを感じることになる。ワークショップが過ぎてしまえば、修正する動機は失われてしまうはずだけど、違和感を抱いたという事実は消せないので、気がかりが残ったまま日々を過ごすのだろう。それは嫌だった。
結局、ほぼ終日その修正に時間を費やすことになった。心理的な抵抗を跳ね除けただけでも素晴らしいのに、そのワークショップの方法について新たな知見を得ることができた。
日記を書く理由
「うつ病者は大事なものを徹底的に手入れして自分そのもののように愛す。それは触れられるものだけでなく仕事や家でもある。私たちは仕事にシンクロし、一体化し、自分を世話するかのように隅々まで手をかけて仕事を作り込んでいく。しかし、仕事に同一化して環境へ配慮しすぎている私たちの本体は剥き出しで痩せ細り、脆弱な核を露出している。環境の大きな変化は、懸命に作り上げて肥え太らせて手入れしてきた自己の分身、本体よりも本体のつもりになっていた分身を剥奪してしまう。そこで露呈する弱く小さく貧しい自己がうつ病の主体である。私たちはそこでせめてもの罪悪感で責任ある主体であることを保つ。それこそが抑うつである。
抑うつがギリギリで補償しているのが原初の喪失、そもそも私たちは特別な対象と完璧な一体化などできないということである。私たちはその悲劇を受け入れて小さな自己のまませめてもの代替物を愛でて傷を塞がなければならなかったのに、あろうことか大きなものに一体化することで傷から目を背けてきた。ただ私自身そんな私たちを責めきれない。私たちは自己の傷を保護するものを、言葉を、愛を——あくまで幻想の水準で——もらい損ね、自分のものにし損ね、誰かの言葉に、愛に、飲み込まれてしまった。だから人から認められることでしか価値を確かめられない。だからちょっとしたことで存在そのものが揺さぶられる。」
連載:臨床と文学 第1回 さみしさ(精神科医:増茂悠人)#臨床と文学
依頼された文章を一通り書き終わった。
それにしてもつまらない文章が書き上がってしまった。読者にとってどうであるのかわからないが、筆者としては読んで面白くない。ただし、今回依頼された文章は、そもそも文章の位置づけが面白くなりようがないものなので仕方ないのかもしれないが。
それでも、自分が書いたものがつまらないと自分で思うのは落ち込む。
いつもであれば、文章を書き終わった時、疲れの中にも書き終わった高揚感を感じることができるのだけれど、今回はただ疲れを感じてぐったりするばかり。普段は自分でよいものを書けたと思う高揚感が疲れを帳消しにしてくれていたのだろう。
菱田屋酒場で昼ごはん。鳥カツのタルタルソース添えを頼んだ。
おいしい唐揚げはよく「柔らかい」とか「ジューシー」とか言われるが、そういう感じの肉汁が出てきて弾力がある、というよりも「ふわふわ」という感じ。そしてカツなので、トンカツ的なパン粉の衣がついており、サクサク。サクサクの中に信じられないふわふわが詰まっている食べ物。カツであるにもかかわらず、もはや上品だと感じた。食べるのがそれほど好きではない私にしては珍しいことに、食べる喜びを感じた。
店を出る時、店主に感想を伝えたら、胸肉の中でも、手の付け根に近いところ、一番よく動かす部位を使っているから柔らかいのだ、と言われた。希少部位なんだよ、と。いやそういう問題ではない、料理がお上手なのだ、と思った。だけど、希少部位なんだよ、と自信を持って言われたので、言い返せなかった。
以前は自分が誰かに褒められたい、認められたいのだと思っていた。
その後、多少なりとも書いたものを人に読まれる機会を持つようになったにもかかわらず、不快な感情は残り続けていた。私が欲しかったのは認められることや褒められることではないと気づいた。そうだとすれば、この居心地の悪さは生活の安定に関わる不安なのだと思った。
しかし、偶然にも生活の不安が減ることになっても、やはり落ち着かなさは消えてくれない。