この二ヶ月ほどAntigravityに魂を奪われていた。それは、第一には、達成感のためであった。私の生活には普段、着実な達成というものがない。対して、Antigravityでコードを書くのには、明確な目的があり、それに対するステップもあった。第二には、前にも書いたように、ギャンブル的な楽しさのためだった。Antigravityはそれほど正確ではないので、指示がうまく遂行されたり、遂行されなかったりする、ということが、おそらく人間にとってはより強く報酬系を刺激する(と言われていた気がする)。第三には、4月以降の生活について考えることの逃避だった。道具を作るという作業はまさに逃避の絶好の口実だから。本当に辛かった、ということを認識して楽になった
最近の民族誌を読んで反感を覚えた。くどくどと書かれるだけで読者をどこにも連れて行ってくれない挿話があると思えば、事例に関係づけられているとは思えない哲学のふわっとした議論が紹介されている。単に「ボトム」と「トップ」があるだけで、「ボトムアップ」でも「トップダウン」でもない。私はちゃんと「ボトムアップ」がやりたい、と思った。これから十年くらいはそのやり方を探すことに費やしてもよいだろう。
蛤を酒蒸しにして、小さめに切った春キャベツと一緒に蒸す。春キャベツの優しい香りがおいしかった。蛤の身は当然おいしいけれど、それはちょっとおいしすぎたので、蛤の出汁だけの方が上等な味がすると思った。
ずっとバイブコーディングしてしまう。諦めて、これも仕事だと思い、のめり込むことにした。そのようにして内心の罪悪感を軽くしてみると、実行待ちの間に結構大量のタスクを処理できていることに気づく。むしろ、繰り返される小規模な、そしてランダム性のある報酬みたいになって(一番中毒性があるやつだ)、通常のタスクを延々とこなすことに貢献している。
大人なので、今日は昼ごはんにホットドッグを二つ食べた
オオゼキ下北沢店でふと目に留まった「ムクノカオリ」を買って、家で口にしたとき、「これはまいった」と口走った。よかった。
ある人が「私は、その人だけに見えているような景色をこそ見たいんだよ!」と言っていた。それは僕の興味とだいぶ違うと感じた。僕は「その人に」を外して、「世界がそもそもこうであった」にしか興味がない。
急にピンポンがなったと思ったら、身に覚えがない小僧寿しが届いて、“I read your article. Great. M. S. “っていうメモが入ってて欲しいな、と思いながら生きてきたが、インタビューに次のように書いてあった。
MS[マリリン・ストラザーン]:(笑いながら)あなたは私の著作について、実によく[わかっていますね]……そうですね、あなたに何か贈り物をしなければならないと感じるほどです。もし私がハーゲンの人間であったなら、あなたのために豚を一頭屠っているところですよ。
うどはうどで食べるけど、うどの皮を刻んで混ぜたうどごはんが大好き。
外出していて喉乾いたけど、自販機やコンビニで買うのが癪なので買えなかった。
国立新美術館で「テート美術館——YBA&BEYOND 世界を変えた90s 英国アート」を見た。自分や誰かが傷ついていることを適切に表現しようとする作品が多かった、と感じる。傷ついていることを正確に表すのは難しい。
バー、SODDEN FROGへ。春菊と、青海苔の香りを移したジンのカクテル。春菊色の万年筆のインクをイメージして作りました、みたいな夢のような艶やかさだった。
最近はとても弱気だ。僕が一日にやっていることが、僕が一日に食べている三食分以上の価値を生んでいるのか、という問いがたびたび頭をよぎる。
それと重なってますます私を落ち込ませているのは、現在の生活の終わりが迫っているのを感じていること。この数年は、もうこんなこと一生ないと確信できるくらい、穏やかで楽しい生活をしていた。きちんとすべてを弔ってあげなければならない。
昨日、直前のキャンセルがあれば通知が来るようにしていたレストランから、翌日の空席のお知らせがあった。今回を逃せば一生訪問することはないだろうと思ったので行くことにした。
食材の香りやうま味ではなく、それどころか普通に調理すれば感じられるであろうその甘さではなく、食材の奥にある甘さを狙った料理だった。蕪蒸しでは、冬の蕪の甘さはほとんど感じられず、筋の部分の甘さだけがほのかにあった。食感もシャミシャミしていたから、丸ごと焼いた後焦げた皮を剥ぎ、汁を全部絞ったのかもしれない。蕪蒸し以外も、食材のほんのりとした甘さへと一貫して研ぎ澄まされた料理で、苦みやうま味の強いはずの食材にそれが感じられないようにしてあった。辛くないクレソンのサラダをどうやって作ったのか全く見当がつかなかった。
大きなカサゴが手に入ったので蒸し煮にしようと思ったら、あまりにも大きくて無理やり身体を曲げるようにしなければ入らなかった。「もはやこれまで」。
いろんな仕事が一旦片付いて、ずっときちんと眠れなかったのがちょっとずつ眠れるようになってきて、ふと冷静になってみると、やるべきことが山積していて、不安になった。この数日はその不安で気持ちが落ち着かず、日記を書けなかったのだった
p2workflowyがやっと完成したので、やっとAntigravityの重力から逃れることができた。初めてAntigravityに触ってから二週間が経っていた。本当に疲弊した日々だった。よく言われているように、頻繁な作業の切り替えが心身を蝕んだ。こんなに激しくタスクの間をうろうろすることはなかったので、そのことを知らなかった。
8000字ほどの文章を書き終わった。実際の執筆は細切れに6日ほどだったが、文章の構想自体は2年以上前にあったものだった。しかし、あまり面白くならなかった。書いている間に奇跡が起きなかった。この数日間の自分の感情を振り返ってみると、奇跡を信じる気持ちが足りなかった、とも感じる。あまりにもだらだらと長引かせすぎた。落ち込む。
私はそれなりによい読み手になりつつあると思うが、書き手としてはかなりしょうもない。
今日は、僕の選択はすべて間違える、と思った日だった
多分、真正で、かつ専門家の手によって作り込まれた漬け物を食べた。自分で作るぬか漬けとは洗練が違った。美しい、と言ってもよい。あるいは、美しい、としか言えないくらい、だいぶ正体不明でもあった。
複雑な構成になっている本を処理しようとして、いろんな理屈を積み上げて、実験して、でも結局無理で、しかもそんなことをやっているうちに以前はできていることもできなくなったので、一旦処理を単純化した。バイブコーディングは機械の気持ちになる訓練をしていると感じた。
あと、ソフトウェア盆栽という言葉を知った。ちょっと恥ずかしい。
二つ目のツールができた。英語の論文を翻訳して、Workflowyに載せるための形にするp2workflowy。いくつもの場所を移動して、手作業でやっていたことをやる必要がなくなる。また、難しい論文は、AIに部分ごとに質問しながら読むとかなり速く深く読めることがわかった。そうすると結局、考え続ける力が制約になってくる。私が考えなければ、私が考えられるようにならない。
菱田屋酒場でカキフライ。巨大な牡蠣だった。一般的なカキフライは、一口か二口で食べる大きさなので、牡蠣全体の味が一度に感じられるが、そのカキフライは違った。部分部分の味がそれぞれに鮮明に感じられた。端の黒々とした部分の岩っぽさ、貝柱の味わいの綺麗さ、内蔵の苦味。どの瞬間も美しいスローモーションだった。
枯朽のお茶会に参加した。
最初のお茶は白茶。秋の夜に楽しくおしゃべりしながら飲みたい。ごくごく飲んじゃって、あっという間になくなるような味。犬の耳みたいな嬉しさ。
二つの目のお茶は、生プーアール。目が覚めるような味。夏の朝日より青い。細かくて黒い石、砂利のよう。儀礼の場で少しずつ飲むにもよさそう。あるいは、ちょっとしんどいときに飲むと、それでも頑張ろうと思える味かもしれない。
三つ目のお茶は、烏龍茶。里山の、どちらかといえば遅めの春。蓮華のような可憐さではなく、ぱっと明るい菜の花の畑。犬のお腹。
最後のお茶はお願いして選んでもらった。お茶請けとして出してくれたのが、菜の花、そら豆、グリーンピース、蕪の蒸籠蒸しで、けっこう蒸してあったためか、青さは飛んでいて、むしろ川の上流にごろごろ転がっている大きな石のような。これに厳密に合ったお茶を選ぼう、ということで清藤さんと相談した。選んでくれたのは、かなり気持ちが凪ぐようなお茶。とはいえ、暖かくて明るいというよりどちらかといえば無機質的で、川にかかっている鉄橋のよう。煎を重ねると、少しずつ橋を離れて山道のほうに入っていくけど、微かに川の音が響いている感じ。
友人Tと話していた。最近はたくさんワークショップをしていて、どれもけっこういい感じらしい。
ひるがえって、私が開催しているワークショップはどれほど盛り上がっているだろう、と思った。Tと一緒にファシリテーターする機会があるたびに彼の技術や発想を学んできたので、最近の私のワークショップがつまらないことはないと思うが、ものすごく盛会だった、というほどではない気がして。会を面白くするための細かいコツを積み重ねてきたからこそ、改めて「そういう問題だっけ…?」と考え直すことになった。
話の流れでTは次のように言っていた。「なんとなく、盛り上がり、熱気、迫力、みたいなのがワークショップの、雑だけど信頼できる指標だったりしますよね。その場で何か知らないことが起こっている感というか」。
そして気づいた。一番大事なのは、「ここで小さな奇跡が起こると信じてください」と自分にも参加者にも言い聞かせることなのだ、と。改めて考えてみると、何かを作ったり書いたりすることは、元々それ自体としては大したことのない素材や他の人だって知っているようなことから、それ以上のものを生じさせることだろう。ワークショップの参加者も、そのような確信を共有した方が、その場でよいものを生み出せて、楽しめるに決まっている。
というか、ワークショップについての反省を離れて、私は奇跡を信じることの重要性をわかっていなかったな、と思った。私自身が面白いと思える文章が書けたときは、そこでちょっとした奇跡が起こっていたはずなのに。私は作ることや書くことが何もわかっていなかった。
ここ数日読んでいる本の著者のことがだんだんわかってきた。一般的に「羨ましい」という言葉は、自身が根ざしている価値観の体系において優れているとされるものを持っている人に対して向けられると思われるが、著者は私と異なる前提を生きているように思われ、その前提を自分は採用しようと思えず、そのために羨ましさに似ているようで違う感情を抱いている。
毎日本当に楽しいが、この日々の終わりが近づきつつある。これだけ楽しい日々を過ごしているということも、忘れっぽい私はきっと忘れてしまうのだろう
引き続きAntigravityで遊んだ。ちょうどトークンを使い切るくらいのところで一通りツールができた。しかし、そもそも何のためにツールを作るのかきちんと考えずにツールを作ったせいで、紙ではなくデジタルでその作業をする意味がよくわからない、と思った。
ともあれ、衝動が治まるまで遊び切った。よかった。執着を手放すことに執着があると言える。私は「芋粥」が好き。もっと軽やかになりたいという衝動は強いのかもしれない。
昼ごはんはケノヒノパンでサンドイッチを買おうと思ったら、あんバターしかなかった。「これしかサンドイッチないんですね……」と狼狽えていたら、「ジャンボンブールなら作れますよ」と言ってくれた。とてもありがたいが、あんバターもジャンボンブールもフランスパンベースのサンドなのだ。口の中がズタズタになりそいう、と思って迷ったが、お願いした。ジャンボンブールはわざわざ切って作ってくれた。ありがたい。やはり口の中を切った。
近い分野の研究者がインタビューされているのを読んで、とてもつまらなかった。しかし、私が研究者として特別ではない以上、その研究者がつまらないということは私も同じくらいつまらない存在なのだろう。
今日もずっと魔法のような表現とその方法について考えていた。内容にも背景にも興味はなくて、記述を生み出す仕組みだけが知りたい。頭の中を考えの断片が駆け巡っている。
数日かけて読んでいるテクストに楽しそうな読み筋が見えてきて嬉しい。
Antigravityに出会ってしまった。時間が溶ける。こんなに楽しいのは久しぶりだ。新しいおもちゃ。それなりにできるものづくりの領域が増えたこと、大きな喜び。しかし、こんな感じで、思考がなんか断片化してしまう……。
検討すべき本をOCRして、丸ごとWorkflowyに流し込んで、線を引きながら読み、重要な部分を抜粋した。一度すべてをテキストデータにした上で分析を進めることには、抜け漏れなくデータを扱えているという安心感がある。文章を自由に読むには手続き的な不安がないほうがいい。
難しい本に歯が立たなかったので、AIに少しずつ渡して解説してもらったら革命的にわかりやすくなった。人類学などの難しい本は、現実の細部に根ざして語りを組み立てなければいけないせいで、議論を理解できないうちにはとかく詳細に振り回されてしまうことになる。その事実的な部分を一旦脇に置いて、仮説としてであっても読み筋を提示してもらえると、元の文章の事実的なところもきちんと位置づけられるようになる。おおまかな仮説を持った上で文章を読めれば、仮説の誤りも修正できる。読み書きすればするほど世界が豊かになることを日々実感している。
今日はたくさんの書類が届いて、そのだいたいが社会保険や年金の関係だった。企業に義務を課した国に守られている、と思い、そのような仕組みを作った人類の歴史に感謝した。医療が理系寄りの人類の叡智だとしたら、社会保険があまねく行き渡るようになっていること、つまり人権が適切に設定され、法律と書類が緊密に組み上げられている状態は、どちらかといえば文系の叡智だなと思った。
昔住んでいたあたりを散歩する。外食をした記憶がまったくない。時間があり、貧しかったんだろう、と思った。
数日間手がつけられなかった資料を読み始めた。昨日は「つまらない文章になってしまうかもしれないということを考えると怖くて始められない」と書いたが、資料を読み始めてみると、それがあまり面白くなくて、今日はここから意味のある文章が書けるのか不安になった。
自転車を漕ぎなら、「あー、なんかつまんないのー」と叫んでいた。口にして、おかしいなと思った。少なくとも今日は、AIとたくさん話して、すごく思考が進んだ日だったから。議論したのがAIだからつまらなかったのだろうか、あるいは、そもそもつまらないというのは誤った感情の認識だったのか。
ここ数日、手をつけたくない書き仕事を前にぐずぐずしてしまい、無為に時間が過ぎている。多分面白い文章が書ける、と思ったからやることにした仕事なのだけど、つまらない文章になってしまうかもしれないということを考えると怖くて始められない。自分の底が見えてしまうようなことに取り組むのは怖い。
朝からトークンが尽きるまでAIと壁打ちしてしまう。この日記を書いているその翌日もトークンいっぱい壁打ちした。AIは疲れないし、議論を誤魔化さないし、優位に立とうとしないし、どんな雑なフリに対しても丁寧さを失わないからありがたい。
山﨑広太の戯曲ダンス 「右の眼、交差するデリカシー、青炎球、骨と直線(する)」を見に行った。
ずっと思っていたのは、柱や椅子がある狭い空間で身体をはちゃめちゃに使っているのに机に手をぶつけたり壁に激突しなくててすごい、ということ。自分の身体とものの距離が正確に測られている。
全体としては、私には上手な踊りがどのようなものか何かわからないものの、上手な踊りを見た、と思った。静止せずほんのわずかに体を動かし続けてみせるところとか、格闘技のように細かく手を動かしてみたり舞踏のように這ってみたりと人間に可能な様々な身体動作を繰り出してみせるところ。
とはいえ、人間に可能な動作をすべてやっているわけでもないようだった。というのは、演者同士が触ったり、支えたり、振り回したりすることでできる動きもあるはずだったから。全く接触しないわけではなかったが、最後の方に少しだけだった。ダンスを一緒に見に行った人は、接触すると演者の間に関係性ができてしまうからかもしれない、と推測していた。そうかもしれない。総体として、関係性や感情といったものが込められていないような踊りだった。
誰にも見せない日記は十年以上書いているが、自分しか読まない文章にはきちんと検討されないままになっている部分が多い。公開する日記はその行間を詰めるのに役に立っているようだ。
本を読もうとパソコン作業には向かないけど好きな喫茶店に行ったら今日は妙に煙草が充満していた。家に帰っても煙草臭いのが取れなくてうんざりしてしまった。